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2011年7月10日 (日)

飯豊山名考

1.飯豊山名の由来

2.古代日本における出端圏の形成

3.飯豊山名のヒント

1.飯豊山名の由来

 1997年頃から飯豊に入るようになって、いつも気になっていたのは、「飯豊はなぜイイデというのか」、「イイデという発音に何か意味があるのか」という事だった。

一般に「イイデ」という山名の由来としては、
①山容が飯を豊かに盛るに似たるより(飯豊山縁起)
②山麓に温泉が出たことから、湯出「ゆで」の訛り(出典不明)
③「白川郡。飯豊山。此の山は、豊岡姫命の忌庭(ゆにわ)なり。又、飯豊青尊(いいとよあおのみこと)、物部臣(もののべのおみ)をして、御幣(みてぐら) を奉らしめ賜ひき。故(かれ)、山の名と為す。古老曰へらく、昔、巻向珠城宮(まきむきのたまきのみや)に御宇(あめのしたしろしめしし)天皇の二十七年 戌午年の秋、飢えて人民多く亡せき。故、宇惠々(ウエエ)山と云ひき。後に名を改め豊田と云ひ、飯豊と云ふ。」(陸奥国白川郡白槻村都々古和気神社別当大善院奮記所 レ 引)←風土記逸文
④あとイイトヨがフクロウの古語なのでフクロウの住む山という説(出典不明)
が挙げられる。

 ①に対しては、「飯豊」という漢字が宛てられる前から、「イイデ」と呼ばれていたのではないか。そうであるならば、飯を豊かに盛るという説明は、後付の恐れがないか。
 ②に対しては、他にも温泉の出る山は沢山あるのに、そのような名前の付け方をされる山は他にない。(湯殿山がそうかもしれない)。また、イイデの様な巨大な山塊に対し、一部の出湯に由来する名前を付けるとは、考えにくい
 ③は、一番本当らしいと思っている。しかしながらこの考えに対しては、井上道泰氏から前段を後世の贋作とする批判が出ている。氏の考証は飯豊山神社の分布、飯豊青姫命、物部の臣に及ぶ物で、その結果前段を後世の贋作と結論づけ、本来の姿を「昔、巻向珠城宮、御宇(垂仁)天皇の(御世)、飢えて人民多く亡せき。故、宇惠々(ウエウエ)山と云ひき。後 に名を改め豊田と云ひ、飯豊と云ふ。」と推察している。(昭和二十三年二月飯豊山古文献(一)「越後山岳」創刊号101~102頁)
 ④は、想像の域を出ない。もう少し裏づけが欲しい。
といった疑問がある。自分の中では、どれも根拠に乏しいが、③が比較的信憑性があって、他も完全に否定できないという感触。
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 それで、自分なりに「イイデ」の由来を考えてみようと思った。方法としては、1.飯豊山の周辺で「イイデ」の由来のヒントとなる地名はないか、 2.別の山域の「イイデ」という地名の由来は何か、を考えていた。しかしこれは難しい事だったので、とりあえず「イイデ」に拘らず、目に付いた地名の意味 を考えていった。
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⑤ 胎内、遠野~遠野は古語「遠野保」と表記。いずれもアイヌ語由来と思う。いずれも水に由来する似た地形を表したと思う。「トイヌップ」等の発声イメージを 持っている。胎内は「鯛名」と表記された文書を見たことがある。遠野は往古一面の湖水だったが、猿が渕川が流れ出て、七内八崎の地形になったという伝承があ る。

⑥坂額(ハンガク)御前~櫛形山脈の北西に飯角(イスミ)という地名、エブリサシの地形図の北に、安角(アズミ)という25000分 の1地形図あり。坂額御前は、飯角御前と書いてイスミ御前と呼ぶのが、本来の姿だろう。千葉の夷隅郡、九州の夷隅と同じく、半島地形。蝦夷という言葉に関 連あり?中世、中条は奥山の荘、村上は小泉の荘、。小泉は小夷隅?。

⑦大鳥(オオトリ)~アイヌ語の「ウタリ(同胞・仲間)」由来?三面川を北に越えると、古渡路(フルトロ)、鵜渡路(ウノトロ)、大鳥(オオトリ)といった地名が出てくる。 大糸線にも小谷(オタリ)がある。信越国境の山の迫った地形だが、小谷周辺にアイヌ風の地名はない。北海道の小樽はアイヌ語で「オタ・オル・ナイ」、「砂浜の・中の・川」の意。

⑧土深井(ドブカイ)~十和田湖の南にある集落。もとトプカイと呼ばれていたらしい。秋田には、八郎潟を開拓した八郎おとこが、南祖坊に追われて十和田湖の南に定着したという伝説がある。

⑪母狩山~鶴岡の金峰山の南にある山。多分、元は殯(もがり)山だと思う。そこで誰を納めたのか気になる。(蜂子皇子と関連あり?)推古元年(593年)羽黒山を開山。

⑫ 湯殿山、飯豊山石塔~猪苗代の湖岸を一周すると「湯殿山」、「飯豊山」と書かれた石塔が点在しているのが目に付く。石塔は湖岸の小高い所に置かれており、 湯殿山と飯豊山は、8:2位の割合だろうか。このとき湯殿山と飯豊山はワングループと思った。(飯豊山を出羽三山と言ってるのではなく、南の人から見れば イデハの山ということ)

⑬余目(アマルメ)~荘園制度の本荘と対極の概念?「いでは」の証拠?

⑭優嗜曇(ウキタム)~置賜の古語、日本書紀持統天皇3年(669年)に優嗜雲の城養蝦夷脂利子(シリコ)の二人の息子の出家話アリ。(シリコは白子沢との関連あり?)和銅5年(712年)最上郡と共に新設の出羽の国(出端の国)の下に移される。

⑮都岐沙羅(ツキサラ)柵~磐舟柵のアイヌ語表記?村上付近の古い呼び名?。

⑲月山神社で黒牛の火伏せ札を貰った。飯豊にも同じ札がある。昔庄内地方に大火があって、巨大な黒牛が転げ回って背中で火を消したという伝説がある。仏教前の神々の系譜。

⑳月山神社で聞いた話。出羽三山で祭られているのは、馬、牛、兎。馬は羽黒山、牛と兎のどちらかが湯殿山と月山。飯豊は酉を食べてはいけないという禁忌がある。これは仏教というより、中国の道教、二十八星宿を思い起こさせる。

①1997年頃、出羽三山の信徒が急速に減少している旨を報道する、特集番組があった。三山側はこれを否定。減少したとする理由は首都圏の信者の減少だったと思う。

⑤櫛形山脈の周囲は元々沼沢地だった。金塚の下小中山辺りを通った人は、小さなヤブ池が点在してるのがわかる筈

⑥夷隅(イスミ)や安角(アズミ)は、蝦夷(エゾ)と関係あり?一方で、信州の安曇野(アズミノ)は、「ワダツミノ」の転訛と言われ「渡来人の住んだ地」と言われている。

⑨邪馬台国は、大和に固まりつつある。魏志倭人伝に出てくる日本の山は阿蘇山。鵜飼いの風習も既に見られる。「地勢は西に低く、東に高い」とも書かれている。東の山には触れられていない。


⑬姥御前の前掛けをめくった人はわかると思うが、前掛けの下は巨乳の裸身だ。だからこれは、仏像ではないと思う。顔は廃仏毀釈で壊れたのか、会津と岩倉との争いで壊されたのかわからないが、飯豊で一番古い神だと思う。

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2.古代日本における出端圏の形成

 和銅元年(708年)9月28日に、越後国に出羽郡を設置。和銅5年(712年)陸奥の国から置賜郡と最上郡を譲り受け 、のちに出羽の国となる。平安時代 まで、出羽は「いでは 」と発音していた。出羽の本来の意味は、大和朝廷が北に版図を広げる上で、蝦夷の領土への橋頭堡や出端(いでは→進出のきっかけ)となったものを指す。

 ざっくり言うと、大和(邪馬台)と夷隅(蝦夷)の間に半植民地的な出端(イデハ)があったという考え。(タキトゥスの「ゲルマニア」にも、ローマとゲルマニアの間の従順なゲルマニアが出てくる。)このことは前述の優嗜雲の城養蝦夷の二人の息子の出家話や、櫛形山脈周囲の上代の陸上から途絶された地形(上代において水面下10mという分析あったはず)、村上以北のアイヌ風の地名の濃度からも伺える。

 もう一つ、東北における出羽三山信仰の形成の意味を考えなければならない。蜂子皇子(能除太子)による羽黒山開山はまだ蝦夷の版図であった時代に行われている点で、伝説的なものであるとしても、蝦夷版図の中に仏教を持ち込んで、前代信仰者を教化した政策を伺えるからだ。優嗜雲の蝦夷が僧になったのを記録したのも、そういう意味だと思う。

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3.飯豊山名のヒント

 自分は、飯豊周辺の地名を考えている内、イイデは「イデハ山」でないかと思い始めた。イデハとは「出端」と書き、出羽「デワ」の古語となった言葉である。その意味は、日本が中央集権制を確立する中で、蝦夷を統合する過程で出た「起点」「橋頭堡」である。イデハの国との間に障壁として大きくそびえる山塊をイデハ山 と呼んだという発想は、魅力的に思えた。

 しかし、この発想に対しては、同じ「イデハ」が何故「デワ」と「イイデ」という違う発音に変化したのか、という疑問も生じた。また、仮にイイデという名前が「イデハにあった山だからイデハの転訛」、と言った場合。出端(イデハ)という意味を残しながら省略するには普通「デハ→デワ」が適当である所、イイデでは、「出」という意味しか残らず不自然という疑問もあった。何より、それなりの説得力ある考えでありながら、従来の語源の推定で「飯豊は出端に由来する」というものが全くないことに、ずっと悩んでいた。 

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 これに対する答えは、「出羽側の由来は消去された可能性がある」 ということだった。 というのは、江戸時代に、出羽側、岩倉の滝不動から御坪を経る登拝路がメインだった所、福島側の蓮華寺が、滝不動に焼き討ちをかけ、以後川入から三国岳を経る登路が表参道となったからだ。その際滝不動の寺宝などが略奪損壊された所までは記録に残っている。もう一歩想像を進め、岩倉側の飯豊山縁起が棄却された可能性がある、と考えて良いと思う。或いは同様の「飯を豊かに盛った」縁起で、消されていないかもしれないし、消されたとして縁起の内容はわからないわけだが、例えば「出端所領のシンボルとしてイ デハ山と呼んだ」であれば、会津の蓮華寺にとっては、残すのに都合が悪かっただろう。少なくとも、いいで、と言う名前には、階層性があるかもしれない。本来の意味のイイデと、豊穣の信仰の山としての飯豊(それは蓮華寺が滝不動を焼き討ちしたときに始まったのか?)は、区別する必要があるかもしれない。
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 結局の所「いいで」の語源は、わからないというのが妥当だろう。「いいではイデハに由来する」というのは、面白い考えではあるが、今までの由来と比べて、説得力ある証拠があるわけではない。しかしここを調べれば語源に近づけるというヒントはある。

1.姥御前~大地母神にも似た不思議な裸体。損壊されたような顔。小松のマエが石とされたという伝説、置かれた鞍部というポジションと合わせ、出羽側の一時代前の神かと思う。全国の山岳宗教の像で似たプロポーションの像を探して、信仰の性格を調べたい。

2.出羽三山信仰~出羽三山と飯豊が敵対していたのか連係があったのか、飯豊をどう見ていたのか縁起を調べたい。また出羽三山範囲の縮小や、内乱があってから、別当を高野山から招き、一段下の禰宜を自社系から出すようになったという噂を確かめてみたい。

3.弥彦~日本書紀か、霊異記かで弥彦が反乱を起こしたという記事を読んだ記憶がある。国上山の酒呑童子伝説とも併せ、古代日本の統合がどのように行われたのか、史料を見たい。
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飯豊山名を考える上で大事なのは、飯豊だけを見るのではなく、ライバルが飯豊をどう見ていたのかだと思う。そこに美化でない真の記述が隠されている気がする。それぞれの根拠資料や各地の山で気づいたことは、少しずつ書き加えます。
 2011.07.10桃パパ

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コメント

こんにちは。
実際に山登りをされる方の「飯豊山名考」興味深く読ませていただきました。「飯豊」があてられた理由には別な想像もしているのですが、「イイデ」という読みについては、いくつかの場所に実際に言ってみて気づいたことがあります。
岩手県の伊手川の神社について書いたわたしのブログにまとめていますので、よろしかったらどうぞ。

五十嵐様、ブログ拝見しました。イデを水の湧き出る所と比定するのは興味深いと思います。飯豊山の元の祭祀は山形側の滝不動と言われており、やはり水に関係するところでした。飯豊の語源についてはもう少し調べてみたい事もあります。今後ともよろしくお願いします。

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